【名前(本名)は?】細川ガラシャの美人肖像画は?辞世の句(名言)の意味は?年表をチェック!

「世界ナゼそこに?日本人」で廃村の危機から村を救ったといわれる明智光秀の娘・細川ガラシャ隠棲の地がある。

細川ガラシャの名前(本名)は?

美人といわれる細川ガラシャの肖像画はどんなもの?

細川ガラシャが死ぬ前に残した辞世の句(名言)の意味は?

細川ガラシャの歴史年表は?

大河ドラマ『麒麟がくる』でも細川ガラシャが登場しました。

細川ガラシャは、名門細川家の細川忠興の妻(正室)でキリシタンで、信長を討った明智光秀の娘でもあります。

いったいどんな女性だったのでしょうか?

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細川ガラシャの名前(本名)は?

本名は?

一般的に知られている名前は細川ガラシャですが、本名ではありません。

本名は「玉(たま)」ですが、

「玉子」

「珠」

「珠子」

などと表記する場合もあります。

”たま”、もしくは”たまこ”という名前であったことは間違いありません。

本名は明智玉(あけちたま)

細川忠興に嫁いだ後は細川玉(ほそかわたま)

というのが、彼女の正式な名前になります。

なせガラシャなのか?

夫の不在中にキリスト教に帰依し、洗礼を受けてたからです。

彼女がキリスト教に惹かれていった具体的な動機はハッキリしていません。

天正15年(1587年)彼女が24歳の頃に洗礼を受け『ガラシャ』という洗礼名を名乗るようになりました。

ガラシャとは『恩寵・神の恵み』という意味が込められています。

細川ガラシャの美人肖像画は?

織田信長も絶賛!

細川ガラシャは美人だったと言われています。

15歳の時に細川忠興に嫁いでますが、この2人の姿を見た織田信長が、

「人形のように可愛い夫婦だ」

と述べたとされています。

10代の頃のガラシャは、いわゆる「絶世の美少女」だったようです!

こちらが細川ガラシャの肖像画⏬

非常に美しく描かれています。

夫の細川忠興の束縛がヤバイ!

細川忠興がとった異常な行動は、

・妻を自分以外の男の目につかないよう敷地からの外出を禁じる

・妻に近づく男を殺害する

・妻が人質になる恐れがあったら殺せ

と命じたといったエピソードがあります!

こうした逸話や肖像画を踏まえると、細川ガラシャは相当の美人だったと言われるのは想像できますね。

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辞世の句(名言)の意味は?

細川ガラシャの壮絶な死は、宣教師によって欧米にまで語りつがれる事になり、なんとオペラにもなっています!

その辞世の句(この世への別れの言葉)も有名です。

ガラシャの最後の言葉で辞世の句は、

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

がとても有名です。

この意味は、

「花も人も散りどきを心得るからこそ、美しい」

という意味でしょう。

本当に肝の座った、外見も中身も美しい女性だったのですね。

年表をチェック!

・1563年(0歳)明智光秀の三女として誕生。

・1579年(17歳)父と同じ織田家に仕える細川忠興と結婚。

・1580年(18歳)夫が宮津城主になり、長男、細川忠隆を出産。

・1582年(20歳)父親の明智光秀が、本能寺の変で織田信長へ謀反し、その結果細川忠興から丹後国味土野に幽閉される。

・1586年(24歳)後の初代肥後藩藩主、細川忠利を出産。

・1587年(25歳)大坂にある教会を訪れてカトリックの洗礼を受け、その時に離婚を考えたがキリスト教で離婚を禁じられていたため諦める。

・1600年(38歳)石田三成がガラシャを人質に取ろうとするがこれを拒否し、宗教で自害が禁じられていたので小笠原少斎に殺させた。

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壮絶な最後・・・

1600年の関ヶ原の戦いで石田三成が、細川屋敷にいたガラシャを人質にとろうとします。

しかし、細川ガラシャはそれを断固拒否!

石田三成は力づくでガラシャを人質にとろうとし、屋敷を包囲します。

その状況を家臣がガラシャに告げると、少し祈ったあと、

「夫の命じている通り、自分が死ぬ」

といい、まず屋敷にいた侍女・婦人を全員逃します。

しかし、ガラシャはキリシタンですので自害は禁止されています。

ガラシャは家老の小笠原少斎に、

「わたしを斬ってください」

とお願いし、気高く散ります。

その後小笠原少斎は、ガラシャの遺体が残らないように屋敷に火を着け、自らも自害します。

ガラシャのキリスト教への改宗を知った夫の忠興は超激怒してましたが、最終的には折れたようです。

夫の「人質になりにそうなら自害せよ」という約束を守った細川ガラシャ。

最後は、細川ガラシャの葬式をキリスト教式でやった夫の忠興。

なんだかんだで結ばれていたような気がします。

おわりに

細川ガラシャの最後は、結果的に東軍に味方する大名を増やす事になり、関ヶ原の戦いの勝敗に大きな影響を与えたと言われています。

父親である明智光秀は本能寺の変によって時代を変えましたが、その娘も日本史の流れを変えた一人だったと感じます。

最後は人質になることを拒み、自ら死を選んだ細川ガラシャ。

その死に様は、彼女が信仰していたキリスト教をきっかけとして欧米まで広がりました。

そして1698年には「丹後王国の女王グラツィア」というオペラにまでなっています!

約100年後ですが、ずっとその生涯は語り継がれていたのでしょう。

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